きのうの日曜日、両親の家に家族と行った。
子供たちは、おばあちゃんと遊んでいてたので、手ぶらで行った私は時間をもてあまし、
父の本棚から、司馬遼太郎さんの『風塵抄』を手に取り読み出した。
この本は、出版されてすぐに読んだ覚えがあり、初版が1991年なので20年前。
20代で読んでいたはずであるが、内容はほとんど覚えてなく、なんとなく目に付いたので手にとった。
産経新聞に月一回掲載されていたものをまとめてある本。
司馬さんは「あとがき」で「小間切れの世間ばなしと解してもらえればありがたい」とされている。
その中の「言語の魅力」を読んで、ドキリ、マズイと思った。
一部引用してみると、
言語は、ひとり言である場合以外は、他者のものである。
聴かされる側にとって、自分の時間と体力と、それに相手の言語が喚起する想像力という
三つのエネルギーを話し手に提供しているのである。魅力のない言語は、拷問にひとしい。
しかも人間は、言語こそこの世の魅力の最高のものだ、とたれもが意識の底でおもっている。
乳幼児は言語こそ発せられないが、たえず母親の言葉によって、
聴覚を通し大脳に快く刺激をうけつづけている。
人間が最初に出会う”芸術”は絵画でも音楽でもなく、言語なのである。
話し好きな私にとっては、「示唆に富む」「身につまされる」、なにより「怖く」「猛反省を促す」文章である。
話し好きとは自己申告で、話が長いというのが現実か・・・。・・・室温19度でも背筋がゾクゾク・・・
20年前に読んだはずなのに、なにも活かされていない。
それどころか、拷問執行者だったのかも。・・・怖い・・・
人間が最初に出会う芸術か~
考えようによっては、自分も芸術家になれるってことか!?
まずは、よく考え、言葉少なく、そうすれば友達が増える?帰ってくる?それを目指そう!
20年ぶりの出会いに感謝し、
今日は「言語」を「文章」におきかえて考えることはやめておく。